建築家隈研吾によるマツダの商業ビルM2(1991年竣工)は、「バブルの象徴」と揶揄され、批判を盛大に浴びる結果となりました。また、その直後に事故により右手を負傷。利き手が不自由となるなど苦難の時に手がけたのが、見えない建築亀老山(きろうさん)展望台でした。隈研吾の新たな新境地となった亀老山展望台の魅力をみていきます。
バブル時の作品
80年代に世界を席巻したポストモダン建築に挑んだ隈研吾氏の初期の作品M2ビル。中央を古代ギリシャの建築様式であるイオニア式の円柱が貫き、その中をむき出しのエレベーターが上下するカオスな建物となりました。
M2ビル
ロードスターのショールームを兼ねたマツダの拠点として造られたM2ビルは、バブルであった東京のカオスを現代建築に翻訳しようとして設計され、「反20世紀」的な際立った特別な建物となりましたが、設計の意図は伝わらず、建築業界からは激しいブーイングにさらされました。
マツダはその後売却し、現在は東京メモリアルホールが葬祭会館として利用されています。
なお、自動車のショールームから葬祭会館に用途が変わることを聞いた隈研吾氏は「転用は面白い。建て主が変わっても対応できる空間の強さを持っていたということだ」(日経アーキテクチュア2002年11月25日号ニュースから引用)とポジティブにとらえています。
右手がダメになって
M2の竣工後、作業中の事故により利き手の右手を負傷し、手術後も不自由となり、自信のあったスケッチが出来なくなっていました。
利き手である右手が不自由になって気づいた変化は、それまでは、能動的で素早い主体であったが、不自由になったことで環境に対して受動的な、ゆっくりとしたゆるい存在へと「変身」していたことでした。
主体と身体が分離したことで、初めて身体を実感することができた。そして、受動的な存在になることで、感覚が開くようになり、いろいろなものが聞こえ、見えてくるようになったのでした。
そして、隈研吾氏の興味は東京から地方へ向かっていきました。
保存運動に参加した「ゆすはら座」
見えない建築亀老山展望台
亀老山からの瀬戸内海
地方で手がけた第一号は、「町のモニュメントになる目立った展望台」として要望のあった愛媛県の大島にある吉海町の「亀老山展望台」でした。
当初は要望に沿って木や石、ガラスを素材にしたモニュメントを考えたものの、あまりしっくりこなかった。だったら「山の中に展望台を埋めてしまったらどうだろう」でした。
それは、町長の要望とは真反対に周囲の中で「目立つ」のではなく、「ひたすら目立たない」ことの追求となりました。
展望台は、本来見るための装置であるにもかかわらず、多くの展望台は、見られるものとして、環境の中に突出しています。これを反転することが、このプロジェクトの目的でありました。
展望台を消去するために、展望台を山頂の土の中に埋蔵しました。正確に言えば、すでに水平にカットされていた山頂のフラットな面上に擁壁を打設し、その両側に土が盛られ山頂の形状を復元したのでした。そして、復元と同時に見えない展望台が形成されました。
ピロティの流行が地形という制約をなかったことにし、コンクリートの上に貼り付けるペラペラの材料を「素材」と呼び換えるなど「自然」を無視する建築となっていった20世紀のモダニズム建築に疑問を抱いた隈研吾氏は「地形」の力を思い出させようとデザインしたのが亀老山展望台であった。
亀老山展望公園
所在地:愛媛県今治市吉海町南浦487番地4
電 話:0898-32-5200(今治市役所)
営業時間:24時間入園自由
駐車場:無料