地中美術館は、瀬戸内の美しい景観を損なわないよう建物の大半が地下に埋設された美術館です。クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品が恒久設置された地中美術館ができるまでを中心にみていきます。
建築家 安藤忠雄
兵庫県立こどもの館
経歴
1941年 大阪市生まれ
1958年 プロボクサーのライセンス取得
1965年 2度に渡り世界を放浪
1969年 安藤忠雄建築研究所を設立
1976年 住吉の長屋
1986年 風の教会
1988年 水の教会
1989年 光の教会
1989年 兵庫県立こどもの館
1992年 ベネッセハウスミュージアム
1994年 サントリーミュージアム天保山
1999年 淡路夢舞台
2004年 地中美術館
安藤忠雄氏は、独学で建築を学び、1969年に建築設計事務所を開設して以来、つねに挑戦を続けてきた。長屋を切りとってコンクリートの箱を挿入した「住吉の長屋」、「地中美術館」に代表される直島での一連の作品、海外でのプロジェクトなど、数多くの建築作品を手がけてきた。1995年にプリッカー賞を受賞しています。
アートの島直島への道
1919年 直島北部に三菱合資会社の銅製錬所を誘致
銅製錬所は、町の財政や人口に大きく貢献するも、鉱石を溶錬する際に発生する亜硫酸ガスによる煙害により、島北部を中心に緑は失われていった。
1960年 三宅親連町長が観光事業誘致を掲げる
1966年 観光事業誘致の結果、藤田観光㈱が海水浴場やキャンプ場、レストハウスなどを備えた「無人島パラダイス」をオープン。多くの観光客を集めたが、1973年オイルショックやキャンプブームの沈静化により来客者の激減や目玉となるプロジェクトが実施できず事業撤退を検討。
1985年 福武書店の福武哲彦社長が直島に訪問し三宅町長と面談。
福武社長の「瀬戸内海の島に世界中の子供たちが集えるようなキャンプ場を作りたい」との考えと三宅町長の「島の南側一帯を、文化的、健康的で清潔な観光地として開発したい」 という思いが結びついた。
直島の概略図
直島での取組み
直島国際キャンプ場に設置された彫刻
1986年 福武哲彦社長急逝。
福武總一郎社長が構想を引き継ぐ。
1987年 藤田観光から約165haを一括購入
1989年 直島国際キャンプ場開設
屋外彫刻が設置された
1992年 ベネッセハウスミュージアム開設
1997年 家プロジェクト開始
2004年 地中美術館開設
地中美術館以降もさまざまな美術館がつくられています
地中美術館ができるまで
建築家の決定
直島構想を引き継いだ福武總一郎氏は、キャンプ場整備プロジェクトを監督するために現地に度々訪れたが、そこで目にしたのは、過剰な近代化と都市化のしわ寄せであった。瀬戸内海国立公園にもかかわらず、銅の製錬産業によって荒れ地と化した直島と犬島、不法投棄による豊島を目の当たりにしたのであった。そして、芸術を使って社会に負わされた傷と闘うことを決意した。
東京ではない建築家であり、ボクサー上がり(現代社会と戦っているイメージ)の安藤忠雄氏に白羽の矢を立てた。
安藤忠雄氏は、1988年福武總一郎氏と一緒に直島に見に行って、その構想を聞かされたが無理だと思った。それは、当時の直島は、工場の亜硫酸ガスの影響で山は禿げ山、海も汚れていた。こんなところに美術館やホテルを建てても人は来ないと思い、断ったのであった。
ところが、福武總一郎氏のこの島をなんとか世界中から人の集まる島にしたいという熱い想いを聞くうちに、自然と気持ちが動かされていて、最後には仕事を受けることとなっていた。
福武總一郎氏は安藤忠雄氏に設計のパートナーとして建物が朽ち果てるまで付き合ってくれと直島第一号の美術館を依頼した。その後の直島の美術館設計は安藤忠雄氏が担うこととなった。
直島第一号美術館オープン
ベネッセハウスミュージアム
1992年に直島で最初の美術館とホテルの複合施設であるベネッセハウス・直島コンテンポラリーアートミュージアム(現:ベネッセハウス ミュージアム)がオープンした。この施設は、「自然・建築・アートの共生」をコンセプトとし、瀬戸内海を望む高台に建ち、大きな開口部から島の自然を内部へと導き入れる構造となっていた。
この用地を目にした際に、安藤忠雄氏は建築をすべて地中に埋め込めたいと感じたそうである。
ベネッセハウスミュージアムでは、安藤忠雄氏は斜面地の傾斜を活かして建築半分を地中に埋めることで瀬戸内の景観を壊さず、建築の内側からは海への視界が開ける配置を実現しました。
サイトスペシフィック・アートへの転換
美術館オープン時は、柳幸典氏の個展をはじめとする企画展を数多く開催。1994年に開催された「Open Air'94 Out of Bounds」展では、黄色い「南瓜」を始めとした作品が屋外に設置され、一部は恒久展示作品となった。豊かな自然の中で現代アートを見せるという本展の流を受けて「自然とアートと建築の融合」という直島の大きなテーマの一つが確立されていった。
草間彌生「南瓜」
ジョージ・リッキー「三枚の正方形」
1995年美術館併設の宿泊施設完成に伴い96年以降、企画展からサイトスペシフィック・ワークへと方針転換し、97年には社内において「時代の変化に色褪せない普遍的な価値を、瀬戸内海の景観や現代アートの価値と意味を深めることによって想定し伝える」というコンセプトを発表した。「自然・建築・アート・歴史」の4つのコンテンツをもって、訪れた人々が自分自身や人間について考えることのできる空間づくりを目指すこととなった。
地中美術館計画
1995年頃より一つの美術館ではボリュームのある施設が足りないとの認識もあり、別館構想が出てきた。いくつかのプランを福武總一郎氏や安藤忠雄氏と協議していたが、決め手がなく具体化にはいたっていなかった。
福武總一郎氏は、モネの睡蓮が好きで集めていたが、1999年ボストン美術館のモネ展に出展されていた2m×6mの「睡蓮」を見て、一目惚れした。福武總一郎氏は所有者を探し出し、なんとか購入することとなった。
福武總一郎氏は、これを軸にして今までずっと決まらなかった別館構想を展開できないだろうかと考え、印象派の名作を現代アートが主題の直島に持ってくることとした。
クロード・モネ「睡蓮」
国立西洋美術館所蔵「睡蓮」
50歳を超えたモネは、ジヴェルニーの自宅で庭園造りを始めました。樹木や花を植え、池には睡蓮が育てられ、モネはそれを繰り返し描くようになります。
その水面は天候や時間帯によって表情を変えるため、画家の関心は尽きず、本作品の制作時にはすでに20年近く睡蓮が描かれていました。花や水面の影に見られる、細部を大胆に省略した表現は、後の表現主義や抽象絵画にもつながる、モネの革新性を示すものといえます。
構想
現代美術の文脈の中に印象派の作品をどう乗せるか。
「いきなり現代美術じゃなく印象派やるの」と言われないように、直島で展開してきた現代美術とどう関連づけていくかを徹底的に協議していった。
そして、福武總一郎氏は「宗教を超える概念をつくる」との思いに至った。モネを中心に聖地をつくる。「よく生きる」とはどういうことかを考える場所としての「モネの部屋」の空間をつくってはどうか。
モネの睡蓮を見ながら、「自然の中で生かされる」ことを考えるための空間ができれば、現代の聖地となるのではないかと考えた。そして、学芸員らに「瀬戸内海にエルサレムやメッカに匹敵する聖地ができないか」と相談した。
秋元雄史学芸員は、建築家を安藤忠雄氏とし、モネを中心にしてウォルターデ・マリアの黒い球体と光そのものを作品にするジェームズ・タレルを競演させるプランを福武總一郎氏に提案し、具体的にすすんでいった。
ウォルターデ・マリア「見えて/見えず知って/知れず」
(屋外展示)
立地の決定
候補地となった小高い丘はかって塩田があった日当たりのいい場所で、瀬戸内の海景を一望できるところであった。
塩田跡は、段々畑のような形状のコンクリートで張り巡らせた状態で放置されていた。構築物があったことから、道からのアプローチもしやすく、整地の工事や国立公園内での建築物の申請もしやすい状況であった。
美術館の形状
候補用地はベネッセハウスミュージアムのカフェから見える小高い山であった。デ・マリアが直島に訪れてくれた時、福武總一郎氏はモネを展示する予定地を指差すと、デ・マリアは、「ベネッセハウスから距離があっていい」と言い、続けて「美術館の外観によって山の稜線を崩すことは避けるべきだ」と付け加えた。福武總一郎氏もそれに同意した。
ベネッセハウスからの風景
福武總一郎氏は「建築については、人間の心や精神の大切なところが表には出ないように、外から見えないものにしたい」と考え、建物のすべてを地下に埋めることを安藤忠雄氏に依頼した。
美術館設計方針
ベネッセハウスミュージアムでは、安藤建築の個性的な建物の中に作品を展示していったので、場所の方が強くなってきた。今回の美術館では、アート作品の方にイニシアティブを如何に持たせるかが一つの課題であった。
美術館設計の方針として
- 3名の芸術家の作品を見せるので、それぞれに独立した部屋をつくる
- それぞれの部屋では常設で作品を展示する
- それぞれが自ら設計するタイプの作家であるから、内部に関しては作家に任せる
とし、安藤忠雄氏には、人がどのように建築空間を体験するかだけを考えてもらい、アーティストの一人として「世界はどのようなところか」という問いを持ちながら内部空間を一緒につくってもらうこととした。
4人の芸術家がそれぞれの世界との向き合い方を開陳する。それが徹底的であればあるほど面白いのではないかと考えた。
そして、安藤忠雄氏がここで追求したのは鑑賞の体験を損なわないシンプルな空間であった。
四角コート
地中美術館での安藤建築の見どころは、打ちっ放しコンクリートの三角コートと四角コート呼ばれる中庭です。庭を囲む巨大な壁には、美しい肌をみることができます。
入口からの打放しコンクリートの薄暗い通路の先にある正方形の四角コートには、静けさと明るさがあり、四角コートの階段を上ることで地中にいることを感じさせるとともに、抽象的な空間により人々を瞑想的な感覚にさせている。
三角コートの空間を強烈に印象づけるのが、壁を切り裂くように穿かれたスリットである。コンクリートのボリュームを上下に隔てるこの開口部は、壁の向こうにめぐらされた回廊に光を採り込むものだが、このスリットは安藤建築の真髄であった。
これらの空間は、美術館内部と外部の違いや地中を感じさせ、人々の感覚に刺激を与え、作品鑑賞前や鑑賞過程での人々の感覚を研ぎ澄まさせている。
施工
施工を指揮したのは鹿島建設株式会社の豊田郁美所長であった。豊田所長は、アーティストと接する際に決めていることは、彼らの思考は建物の工事とは全く違っており、要望は具体的な寸法や仕上げで指示はなく、あくまで頭の中のイメージをこちらに伝えることに徹していた。だから、こちらも拙速に解決を提示せず、試作を重ねて粘り強く協議することとしていた。
建築は、トンネル工事のように地中を掘る方法が検討されましたが、土の硬さや止水などの面から困難と判断。最終的には地盤を約15m堀削し、掘削後の土地に建物を建設し、最後に土を埋め戻すことで地中の建築の実現を目指した。
盛り土の形状や植栽の樹種、位置、高さなどは安藤忠雄建築研究所からのきめ細かな指示によって指定された。
鉄筋コンクリート造り、地上0階、地下3階の美術館は2002年4月に着工し2004年4月に竣工した。
地中美術館の事業は、ベネッセアートサイト直島のプロジェクトを量的に大きく飛躍させる契機となりました。その後の来訪者は、1990年からの30年間で年間数千人から70万人にまで大きく増加。外周16キロの島に今では、日本だけでなく世界各地から多数の観光客が訪れる注目される島となりました。